アウシュヴィッツの記憶と第三帝国、
孤立する東アジアの国々と、今の僕らにできること。



2011年春、大学側の手違いと僕の勘違いによって、ポーランドのグダンスク工科大学にドイツ語教員として短期間配属されることになった。20世紀初頭、日本とドイツは世界大戦まで似たような道を歩み、戦後、大きく異なった進路を歩んだが、僕は偶然にも、ポーランドをドイツ人として、中国を日本人として訪れることになり、自らその違いを見ることとなった。「ドイツを見習う」ということがもはや抽象的に思われるほどにときどき囁かれるが、一体何が僕らをそれほどまでに変えてしまったのだろう?

アウシュヴィッツの記憶と第三帝国

2011年初頭、僕の所属するゲッティンゲン大学物理科の友人から「ポーランドの工科大学で実習がある」という話を聞き、理論物理一直線でやってきた自分の研究に限界を感じていたのと重ね、生活費支給も含まれると言われたので、担当部署がドイツ語学科であったことも特に考慮せずにすぐに応募した。面接でやたらと説明能力のテストがあるのを不思議に思いながらも、はっきり言って現地に行く直前まで、まさかドイツ語教師として派遣されることになるとは思っていなかった。

当時22歳だった僕は僕の学生たちと同い年ぐらいで、”教え子”というよりは友達に近かった。放課後、近くの居酒屋に一緒に行ったり週末はどこかに出かけたり、と現地の生活に直接触れることになった。

僕の仕事はとにかく「話す」こと。隣国とはいえ、ネイティブ教員のいなかったグダンスク工科大学では、ポーランド人同士がドイツ語で会話するという奇妙な状況に陥っていて、実際話すのであれば内容は何でも良かった。とにかく僕の興味のある話でもしてまわった。

僕の行った街、グダンスクはドイツ海軍の練習艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの一撃を契機にドイツ軍が侵攻したことによって第二次世界大戦が始まった街で、やはりそれなりにその形跡が残っている。特に、「自由都市」としてドイツ人とポーランド人が共生していたこの街で、戦争勃発とともにポーランド人が一斉に逮捕されたことは、戦争を自ら経験した本人たちでなくともそれなりに記憶に残っていることだろう。

僕の授業は基本的に平日のみで、休日は、電車で他の街を見て回った。週末に家に誘ってくれた学生たちもいたが、僕としては、見て回る必要性が感じられた場所が何カ所かあったのでそれを優先した。何カ所、といっても大した数はなかったのだが、その中でも特に一カ所、僕には絶対見逃せない場所があった:ポーランド南部の街、オシフィエンチム。旧名、アウシュヴィッツ。

僕はドイツ人ではないし、ましてや僕の今の存在などかつてのアウシュヴィッツ強制収容所に何の影響もなかったことと思うが、「関係ない」では済まされないなんともいい難い責任感の中、半日かけて近くの大都市クラクフまで電車で行き、そこからバスを乗り継いでホロコーストの現場まで行った。

入り口に今も誇らしげに掲げられている標語、"Arbeit macht frei"。ドイツ語はわからずとも、この言葉だけわかるという人もいることだろう。

三月のポーランドはまだ凍えるほどに寒く、僕の着ていた厚手のダッフルコートで歩き回るのは億劫になるほどだった。この環境の中、一日わずか1700キロカロリーほどの食料を与えられて、捕虜たちは働いていたのだろう。

ナチスは情報管理能力の高さでは評判で、恐らくドイツ軍の強さもそこに起因するところが多かったのだろう。逆に、情報抹殺には至れなかったのか、アウシュヴィッツには不気味なほどに何もかも残っていた。チフスで次々に病人が死んで行ったと言われる寝室、入り口近くの見せしめに使われた絞首刑場、今も世界的に悪名高きガス室、建物の間に隠れるように作られた射殺処刑場。

老若男女、ドイツ人、ポーランド人に関わらず多くの人がこの場所を訪れて、それぞれの思いを持って去って行く。ポーランド人はどう思っているのだろう?そして、これを今読んでいるあなたは、ポーランド人がどう思っていると思いますか?

僕のポーランドで過ごした期間、ドイツを糾弾する声は一切聞こえなかった。街のどこを歩いても、誰に問いかけてみても、そんな着想さえないような様子であった。そうであると知っている人も多いことだろう。では、アウシュヴィッツは今ポーランドとドイツの間でどのような扱いになっているのだろう?

僕のいた、ドイツ、バンベルクのカイザーハインリヒ高等学校10年生(日本の高校1年生)の歴史の授業では、世界恐慌から、ナチスの台頭までを扱った。授業を受けている間、全く意識することもなかったが、世界恐慌が1929年、ヒットラーが首相になったのが1933年。実は一年の授業でわずか四年分の歴史しか扱っていなかった。ドイツではこれを「歴史の授業」と呼び、彼らもこれでドイツ人としての矜持を保っていると考えている。

僕のポーランドの学生が応えてくれた。

「今、アウシュヴィッツの存在が、経済発展のレベルが大きく隔てたドイツとポーランドを繋げてくれている。だから僕らは、ドイツを心から尊敬してるし、何より今もこれからも、彼らは逃げ道のなかったヴェルサイユ体制から戦争に至った経緯を何度も何度も反芻することだろう。その姿勢が僕らを安心させてくれるし、ドイツの名望につながっているんだと思う。」

そう、あのとき、結果的に2010年まで払い続けることになった絶望的な額の賠償金と、世界恐慌によって引き起こされたハイパーインフレーションに加え、かつての大帝国そして技術大国の名誉を引き裂かれた状況の中、ドイツに逃げ場などなかった。それにも関わらず、戦後70年が経とうとしている今も変わらず、「あのとき僕らに何ができただろう?」と、見つかるはずもない答えを探し今もドイツは考え続けている。

確かにドイツはホロコーストの国で、凄まじいほどの無差別殺戮をした。この事実は、今もこれからもドイツの歴史として全世界の人々の記憶から消えることはないだろう。

しかし、犯した罪を深く考え、その努力を惜しまない姿勢を前に、今僕らはドイツを軽蔑できるだろうか。

孤立する東アジア

技術発展の遅れたポーランドは、最初に隣の技術大国ドイツの侵攻を受け、戦後USSRの一員ではなくとも、東側に取り込まれ共産主義となった。不思議なことに、東アジアでほぼ同じような状況が起こっていた:日本と、隣国中国

僕が初めて中国を訪れたのはフランスの自宅から、東京の実家まで自転車で帰る旅の途中でのこと。"途中"、といってもカザフスタンから太平洋まで横断する中国は広大で、結果として三ヶ月以上旅することとなった。

この旅が始まる直前、リヨンで友人の家に夕食に誘われたことがあった。週に何度も行くような仲なので別に何も考えずに行ったら、不安そうな顔をした中国人の女の子が一人、最初の方ぽつんとフランス人に囲まれた中静かにしていて、後の方になって少しずつ話し始めた。後々になって、この誘ってくれた友人が話してくれた。

「実は彼女だけ誘うの大変だったんだよ。『日本人は中国人のこと憎んでるから、私のことは誘わない方がいい』って言って。『彼は大丈夫だから来なよ』って何度も言ってなんとか誘ったんだけど、やっぱり最初の方はちょっと怯えてたみたいだね。まああとの方になってから少しずつ話し始めたから良かったけど。」

実はヨーロッパで生活していて同じようなことが何度かあった。お互いに「彼らが私たちを憎んでいる」と、いう不思議な幻想のもと、互いに避け続け、最後にわかりあえることなく帰国する人も多い。

更に言うと、中国人に関しては、日本からだけでなく、全世界の国々から憎まれているという幻想に陥り、言語を学んでいる学生たちでもできるだけ現地の人たちと関わりを持たないようにする、ということも多い。結果として「中国人は冷ややか」というレッテルを貼られ、少しずつ状況が悪化していく、その悪循環が止まらない。一体何が起こっているのだろう?

中国に入って少し経った頃、僕がリヨンから自転車で旅しているという話をしたので、話していた相手の中国人と一緒にリヨンとその近くのラベンダー畑などなどに関する旅行情報をインターネットで探してみた。最初に飛び込んできた情報に驚愕した。

「中国人がフランスでTGVの予約をしなかった結果、差額の他、法外な額を請求された。中国人に対するこのような扱いはフランスで横行している。」

実は、僕も最初にフランスに行った頃、一緒にいた友達が同じように予約の仕方がわからず面倒なことになったことはあるが、そのときの車掌には「ああ、またこの手の問題か」という程度に扱われただけで、特に差額を払うようなこともなく終わった。実際のところ差額を払ったという話すら聞いたこともない。そんな状況の中、仮にそういうことが一度起こっていたとしても「横行している」ということが、半ばアジア人とヨーロッパ人の仲介役としてして生活している僕の耳元に届かないはずがない。

数日後、別件が飛び込んできた:アップルコンピュータのiPhoneが、中国でだけ交換に応じず修理だけで済まし、中国人だけ劣等扱いしている、と。

この記載は三日間連続で新聞に載り、アップルのトップ、ティムクック氏を謝罪にまで追い込んだ。僕にその真偽はわからないが、なにより、この話題が三日間連続で新聞に載り続けたのが僕には不気味で仕方なかった。

後々、現地の人たちからBMWとメルセデスベンツも同じ状況に追い込まれた、という話を聞いた。このドイツの高級メーカーは信頼を売り物にしているようなもので、自動車の試走の点数にこだわらない価値が評判となっている。果たして、そのようなメーカーが、中国だけ粗悪に扱うなどということがあるだろうか。

僕は、中国で生活していて「外国人」と思われることはない。しかしこのことについて当然すぐに見分けのつくオーストラリア人と話す機会があった。

「中国を旅していて、石を投げられたことがあった。同時にその人が何かを叫んでいたのを近くにいた人に聞いてみたところ『なぜ俺たちのことだけ苛めるんだ!』と、言っていたらしい。アメリカ人と勘違いされたんだろう。」

当のアメリカは、1945年と60年代にそれぞれ日本とソ連から中国を救っている。結果として日本から守ったことによって中国の赤化を招き、ソ連から救ったことによって東陣営崩壊のときに中国が巻き込まれないという裏目に出るわけだが、要するに中国はむしろアメリカに感謝の意を表明すべき立場にあるわけだ。にもかかわらず、アメリカは中国の敵として認識されている。

そして、これら全てをこの国は一党が率いている。1949年以降変わらず独裁の地位を保ち続ける、中国共産党。

中国共産党が発足したのは1921年の上海での機密会議でのこと。辛亥革命後、日本からの干渉が絶えなかった中国は、不安定な内政状況になっていたが、蒋介石をはじめとする国民党が日本に抵抗するという体制がしっかりできつつあった。その中、中国共産党はなぜか国民党への攻撃を始め、西安事件後、国民党と協力する体制が整っても日本への抵抗には関心がないような様子だったようだ。この事実は、当時の日本の新聞を読んでも「蒋介石」と「国民党」という言葉が出てきても、「共産党」やその他のメンバーの名前が敵として登場しないことにも見て取られる。

戦後、日本との戦闘で疲弊した国民党は、ソ連からの支援を受けた共産党に対抗できずに敗退した。

日本の戦った相手は、国民党で、死んだのは中国人。日本の戦争犯罪に関しては、1995年の村山談話が踏襲されてるのかされていないのかはっきりしない状況が続いているが、僕らの謝る相手は一体誰だろう?

僕が中国を横断している間、おびただしい数の交通事故をみた。

交通事故、と一言で言ってみても、日本でみるような車がかする程度の軽いものではなく、血まみれになって死んでいる人も何人もみた。僕が無傷で中国を出られるのは奇跡に近い気もする。

僕が最初に着いた東トルキスタン州では、僕が着いたころに、ある鉱山が崩壊し、中にいた人たちが潰され、震度四程度の地震で、建物が崩壊寸前なほどにダメージを受けた。また、毒物が入ったミルクパウダーが平然と売られていたのを覚えている人も多いだろう。

テレビのニュースでも、連日その手の放送が延々と流れる。発展途上国でそういうことが起こることはあるが、中国だけは抜き出ている。一体この精神はどこから来ているのだろうか。

東トルキスタン州の州都、ウルムチで偶然歩いていた通りが開発対象になったという話を聞いたのだが、その通り自体新しそうに見えた。近くにいた人に聞いてみたところ、二年前に作り替えられたばかりらしい。そのときにその通りに住んでいた人たちは強制移住させられ、最近になってやっと戻ってこられたとのこと。その中、行政の側の気まぐれで、また建て替え計画が発表され、また移動。そんなことが許されるのか?

日本だったら許されないかもしれない。この国、中国は「公共の福祉」の名の下、そう言うことが平然とまかり通る。多少人が苦しもうとも、死のうとも、全体の利益のために、その程度の犠牲が払われるのはいわば「仕方ない」という風にとられているらしい。

実際のところ、環境問題なども同じこと。今年三月頃に流行した鳥インフルエンザも、報道規制が敷かれてから完全にメディアから消えた。要するに「少数の人のために金を出すようなことはしない」という政府の意思の現れだろう。ミルクパウダーも、崩壊する鉱山も、とにかく「手っ取り早く金を作るにはどうすればいいか」、という考えの元、特に安全性は確かめずに作った、というのがよくわかる。

「手っ取り早く金を作る」というのはその他、著作権などをみても取れる。中国ではインターネットでどの国のどの音楽でも聴け、映画も自由に観れる。そのことについて中国人と話す機会があった。

「日本にはグリーンデイが公演できたりするだろ?中国には絶対に誰も来ない。中国の音楽も発展しないし、映画祭にも誰も興味なんてない。」

かつての文化大国、中国。その面影は今はない。そのきっかけになった、文化大革命。そしてその張本人こそが、今の政府、中国共産党だった。その結果、中国の文化を研究する人たちは今、韓国と日本をまわるらしい。あの惨事を逃れた数々の貴重品を奇跡的にルーブル博物館などに保存したフランスなどの諸国は、今になって中国政府から泥棒といわれ、恰好の批判の対象となっている。

ルーブル博物館に、今も残るかつての中国の貴重品は、恐らく、中国人が唯一見れる自分たちの文化だろう。そんな皮肉なことがあっていいのだろうか。

海を隔てた先の国、日本。僕らは、憲法九条を掲げ、基本的に戦争に加わったことはない。その平和主義は、世界各国にも良く知られ、アメリカの属国と思われることもなく、どこに行っても尊敬される。僕の暮らしたドイツからもそう言う言葉が絶えない。「ドイツには、日本ほどの勇気を持って『戦争しない』と言える首相はいなかった。だから今までもずっといろいろな闘争に関わって、武器も輸出して・・・。」いつもそんな様子だ。

ドイツは、2003年に当時のシュレーダー首相がイラク戦争に参加しないことを表明するまで、NATOの一員として、どの戦争にも参加してきた。それが、戦争反省と矛盾するように思えるドイツ人も多いらしい。

だが、「戦争反省」という点で日本とドイツは大きく異なる。僕らは、上でも述べた、村山談話で数々の戦争犯罪の謝罪をした以外に、国のトップから特に新たな談話が出てきたことはない。最近になってから、特に南京大虐殺や、従軍慰安婦を否定する声も大きく上がってきているようだ。その結果、最近になってBBCの「世界で最も良い影響を与える国」トップから四位に転落した。右傾化が止まらない国、日本。僕らは果たしてそんな国だろうか?

19世紀に、ヨーロッパ人が登場するまでの数百年、世界にまれに見る大平和を築いた東アジア。元軍事独裁者の娘が大統領になった韓国を含め、最近では、ナショナリズムに走り、国際社会から少しずつ、少しずつ離れて行く。僕はその様子を、平和だった村山談話の頃を忘れられずに、今もヨーロッパから遠く眺めている。僕らは、その様子をなす術もなく、見ていることしかできないのだろうか?

今の僕らにできること

戦争賠償金額をウィキペディアで調べてみたところ、ドイツの支払額は当時の価値で約230億ドル、日本は約290億ドル(外務省参照、又、1ドル360円換算)ということになっている。賠償額に大きな差はない。そもそも、日本を追及する人も、日本で反省しようとする人も、「いくら払ったか」なんてことは知らないに違いない。実は、はっきり言って誰もそんなことには興味がない。

1937年12月から数ヶ月に渡って行われた、南京大虐殺。死者の数にばらつきはあるが、中国側の発表の最大数、三十万人だと仮定しよう。そのわずか二十年後に、南京大虐殺の六十から百回分に匹敵する大虐殺が「大躍進政策」として、平然と行われ、その張本人、中国共産党は今もそれを正当化している。結局のところ、何人死のうと関係ない、と言っているのは日本よりも中国、というより、中国共産党だった。そのことについて、オーストラリア人と話す機会があった。

「オーストラリアには最近中国人がたくさんくるんだけれども、やっぱり彼らはオーストラリアに嫌われているっていう意識があるらしくて、僕らとあまり関わろうとはしない。偽ブランドとかが横行してるのも、全部政府の責任であるのはわかっているんだけれど、結局直接被害があるわけじゃないオーストラリアが介入するわけにも行かないだろ?それじゃ内政干渉だから・・・。本当のところ、あの政権に対してちゃんとみんなで反対できるといい。でも、他の国の闘争に関わりすぎた合衆国じゃ、きっと中立国の反対を買うだけで無理。香港や、台湾、その他東南アジアの国々みたいに直接中国政府からの迫害を受ける国は、中国と比べてあまりに国力が弱すぎる。世界に、唯一声をあげられる国があるとしたら・・・。」

・・・あるとしたら?

「・・・でも、実際のところ、オーストラリアは混乱してるんだ。もし、日本が戦争犯罪を認めて、本気で反省する用意があるのであれば、きっと日本を中心にして世界が動く。」

「世界」、というのはきっと西側諸国のことだけではないだろう。恐らく、そんな体制ができたら、中国人も反政権にまわる、そういう雰囲気が、中国をまわってていろんな場所から伝わってきた。

なにより、「戦争反省をする」というのはどういうことだろう?僕らの世代どころか、僕らの前の世代、更にいうなら僕の祖父母ですら戦争の直接の加害者ではない。そんなことの責任を僕がとるはずもないし、責任追及してくる人がいたとしても無視さえする用意だってある。ただ、僕らの祖先は僕らと同じように日本で生まれ、同じような教育を受けて戦争をした。同じ惨事を二度と起こさないために、「あのとき僕らに何ができたか」という問いに対して僕らは今もこれからも答えを見つけなければならない、そう言うことだとおもう。

僕の世代の歴史の授業では、日本の戦争犯罪を取り上げることになっていた、が、現実問題として、一年の歴史の授業で、何百年、時のよっては千年以上の歴史を扱う日本の授業に、「戦争について深く考える」という余裕はない。なにより、最近の競争社会で何もかもに数字をつけて評価する日本のシステムは、教師が内容を理性的に評価して成績をつけるよりも、機械的に点数をつける方法を優先する。世界最高級の教育者を持つ、日本の学校。なにを恐れているのか、彼らに本当の「教育」をさせようという動きはあまりない。

何に関しても世界最高品質を誇る日本にふさわしい教育者に対して、彼らを延々と批判し続けるあまり品質に評判のない日本の政治家たち。はっきり言って、プラザ合意と、その対応策として導入した政策が後々日本経済を崩壊させた以外に、彼らがなにかをしたことがあるのか謎だが、なんにせよ、彼らが今最も積極的に日本の戦争犯罪を否定しようとしている。なぜか。

基本的に武器の生産や輸出ができない日本。もしも、それが正当化されて日本の技術がそこに使えれば、恐らく相当な利益になるだろう。そのために必要なのは「敵」の存在で、今、日本にとって一番手軽に敵として認識できるのは中国だろう。そして、この事実は中国共産党の武装化も手助けし、お互いに武力強化につながる。その証拠に、中国には「打倒日本」などという、戦争反省などとは何の関係もない、単純な敵作りのためのプロパガンダも張り出されている。結局死ぬのは互いの国の国民で、その引き金を作る政治家たちではない。彼らにとってこれほどうまくいく話はない。

なにより、今の日本の政権は、2011年の原発事故を引き起こすきっかけになった人たちで、そのときの政権党が偶然自分たちでなかったのをいいことに、ただただ政権批判を繰り返し、自分たちが何十年にも渡って築いてきた安全無視の原発依存に対する謝罪すらない。自分たちの犯した犯罪に対する責任を取るどころか、謝罪すらできないような人たちに、過去の犯罪に対する謝罪などできるはずもないだろう。

五十以上の民族を抱える中国。無理矢理中国に取り込まれた民族も多く、はっきり言ってあの政権のもと一国として成り立っているのが不思議な状況だが、それを支えているのが仮想敵国、日本。僕は、もしもこの仮想敵国を彼らから奪ったら・・・という思いが絶えない。

この文章を書き始めた頃、香港でスターバックスに入った。店内は店員の手が行き届かないほど混雑していて、僕がとった席の左右に座っていた人たちが去った後、ゴミがつまれていたのも、片付けられずに放置されていた。そもそもスターバックスにしろマクドナルドにしろ、中国と香港では客が片付けるという風習がないため、店員の手が行き届かない場合、その場に残る。

すると、偶然にも次に僕の左右両側に来たのは日本人だった。

叫び声ばかりが聞こえる香港のスターバックス、その中で、他人に迷惑をかけずにできるだけ声を潜めていた日本人がここにひっそりいたことなど誰も気づかなかっただろう。

少しして、一組が去り、もう一組もまたその後少しして去って行った。

彼らが残したテーブルは、彼らの使ったものどころか、その前の客のゴミさえきれいになくなっていた。

数年ぶりに純粋な日本人をみた僕には、能ある鷹の、強烈なほどに鋭い爪が、一瞬だけ見えたような気がした。

憲法九条と、武器輸出三原則を基にした伝家の宝刀、平和主義。戦後日本が歩んできた道は決して間違ったものではなかった。その、名実共に裏切らなかった日本人の本当の強さがあるから、僕は今もこれからも、世界のどこに行っても、尊敬の念を持って迎え入れられる。

最近になって、アフリカに熱心に投資する中国。実際にアフリカに行って工事に携わっていた人が「彼らのために、電力を敷いたんだ。きっと現地の人たちはみんな喜んでいる」と誇らしげに語った。それを聞く僕は、中国が、インフラ整備と言って、アフリカの村々をことごとく破壊し、僕ら日本人が旅行に行くのも危険な状況をつくり出していることを知っている。彼ら中国人は何も知らなかった。知る術もない。そして、この事実は、苦しい場面で必ず助けてもらい、「日本人」と言って喜んで迎えてもらった僕が一番良く知っている。無実で、純粋だった中国人。かれらが「世界に憎まれている」という幻想のもと、外国で惨めな目に遭っていることが、中国共産党に対する依存性をより強くし、そしてこれからこの虚偽は、少しずつ事実に変えられていってしまうのだろうか

南京と、上海の中間に位置する、豊かな街、蘇州。その中の、去年尖閣諸島問題で破壊されたという日本人街の通りを歩いた。

その場所を僕に案内してくれた日本人は、その現場の写真を悠々と携帯電話でとりつつも、全く自分には危険が及ぶことがなかった、と言っていた。

今も貧富の差が埋まらない中国。日本車や、日本料理店を破壊したのは、恐らく裕福さの対象である「日本」を、人生でどれだけ努力しても決して得ることのないステータスと結びつけ、中国人の上のクラスに反発するために行ったのだろう。僕には、そのときに人に対する被害が全くなかったという事実が、きっと日本にだったら救える自由のない国中国の、救助を求める国民が、ギリギリのところで見せたサインに見えて、結局三ヶ月しかいられなかった中国のすべてを見れずに、当分戻ってくることすらできないことを知りつつ去ってしまったことを苦く感じ、今も何度も何度も、思い返している。